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90期 蜿タ亮寿
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2025.04.27 文化人類学者・移川子之蔵博士のこと(その3) −めぐりめぐってつながった糸−
   蜿タ亮寿(90期) 明治大学島嶼文化研究所客員研究員
 移川子之蔵(うつしかわ・ねのぞう)とは旧制安積中学16期(1904年)卒で、1917年にハーバード大学でドクターを取得、1928年、台北帝国大学に土俗人種学教室が開設されるにあたり教授として赴任し、大著『臺灣高砂族系統所属の研究』により帝国学士院賞を受賞した、戦前の文化人類学者である。民族学・文化人類学の分野において海外でドクターを取得した最初の研究者であり、また、日本の大学で同分野初の専攻コースを担当し、後に活躍する馬淵東一らを育てたことで知られている。そのため、民族学・文化人類学史において必ず紹介される我が国初期の人類学者である。
 2018年、私は東京桑野会会員ブログ(2月)と『桑野会報』第49号(9月)にて移川を紹介する機会を得た。同学の先輩として興味を覚えたのはいうまでもないが、二本松という片田舎で育ち、安積中学卒業後、日本の高等学校や大学に進むことなくなぜ米国留学できたのかにも関心があった。ただ、私が紹介のために参照した資料はすでに刊行された書籍類が主で、何ら特別な資料を持ち合わせていたわけではなかった。そして『桑野会報』に書いたとおり、2006年の末、前安積歴史博物館長の故仲村哲郎先生(66期:2014年没)が故吉成健児氏(64期)から移川を紹介してはどうかと資料を手渡され、2007年、吉成氏の逝去後、『桑野会報』(38号)に移川を紹介したのだった。仲村先生は、吉成氏から出版物の抜粋その他の資料をお預かりしたと書いているのだが、この「その他の資料」とはどのような資料なのか、また、なぜ吉成氏が移川を紹介しようとしていたのかが気になり、この資料につき安積歴史博物館に問い合わせたのだが、保管されてはいなかった。それから私はその資料の追跡を諦め、移川の直系子孫の方を探してみようと思い、ネット頼りに東京在住の移川さんに連絡をとり、2020年春、移川の弟で一緒に米国に留学した末之介(後に建築家)の孫S子さん、続いて移川の直系孫のSさんにたどりついたのである。しかし、おり悪くコロナ禍のため直接会うことはためらわれた。が、S子さんからは受け継いでいた過去帳の写しをいただくことができ、子之蔵を中心とした移川一族の関係がだいぶ把握できたのであった。そしてコロナ禍も落ち着いた2022年11月、私は移川の生地を訪れてみようと安積歴史博物館を訪問後、二本松の根崎に足を運んだのである。驚いたことに、根崎は高村智恵子の生家に近く、また朝河貫一の出生地でもあった。私は移川家と遠い親戚だという方に出会い、この方に案内されて、移川家の菩提寺である顕法寺の墓地にある一族の墓を訪問することができた(写真上左)。移川家は江戸時代から知られた商家だったのだが、現在は分家筋の一軒があるのみである。住職によれば、もはや一族の墓所をお参りに訪れる人はおらず、このままでは無縁墓地として処理せざるをえないのだが、代々商家として栄えた移川家の墓地をどうしたらよいものかと悩んでいる様子であった。つまり、移川本家を継いだ子之蔵の長兄・源吉家のゆくえが不明なのである。
 一方、2021年9月、考古学を専攻し長く地元の郡山で文化財関係の仕事に従事していた兄が仲村先生の奥様から、先生の遺品で必要なものがあれば寄贈したいと調査依頼があったのである。私は兄が仲村先生と関係があったことを知らなかったのだが、『郡山市史』改訂の関係で面識があったのである。私はすかさず「移川子之蔵」と書かれたような封筒などが保管されていないか確認してほしいと兄にお願いした。しかし残念ながらこの時は発見されず、2年後の2023年10月、再度お呼びがあり、ついに資料が発見されたのである。すぐに東京に送ってもらったのだが、「移川子之蔵博士関係資料」と鉛筆書きれた封筒の中には関連書籍の抜粋のほか、子之蔵の少年期、米国留学時代、台北帝大時代の写真のコピーや「父の経歴書」が入っていて、仲村先生が書かれたであろう移川紹介文の構想メモが添えられていたのである。また、吉成氏がすでにB4で手書き3枚にまとめており、なぜ吉成氏が移川を母校に紹介しようとしていたのかが判明したのである。つまり、吉成氏の妻の祖母が子之蔵の次姉であり、妻は生前、子之蔵が有名な人類学者であったことを夫・吉成氏に語っていたという。また、妻の妹K子さんの娘H子さんが2003年から2年間ミシガン大学に留学しているときに、日本から客員教授として来ていた文化人類学のN先生が授業で移川子之蔵に触れたという。そして、H子さんは子之蔵が母方の親戚にいた人ではないかと日本にいる母K子さんに確認したのであった。このN先生こそ私の大学院時代の先輩である。私はN先輩から、ミシガン大学で講義をしていたときに移川の親戚だという学生がいたと聞いており、移川の博士論文の写しをいただいていたのである。ただ、N先輩は学生の名前や連絡先を思い出せず、私はそのルートから移川に接近することができずにいたのだった。それがこの吉成資料によりつながったというわけである。
 私は吉成資料にあった妻の妹K子さんにさっそく連絡をとり、それ以降、現在に至るまで色々ご教示いただいている。驚くことに、娘H子さんは文化人類学を勉強しようとして留学したこと、夫は移川ゆかりの台湾の方であることなどをうかがった。2005年、H子さんの帰国後、母K子さんは姉の夫・吉成氏と連絡をとり、顕法寺をとおして移川子之蔵の長男丈児氏(2019年没)をつきとめ、お会いしている。また、吉成氏は二本松教育委員会に情報提供するとともに、2006年8月に二女KK子さんを伴って二本松を訪れており、二本松・安達ケ原ふるさと村にある「先人館」に移川の遺品等を展示することを模索していたことがわかった。
 私は2024年4月、90期の同期会への出席に合わせ、「先人館」を訪問するため再度二本松を訪れた。小さな資料館は1993年に開館し、朝河貫一、高村智恵子をはじめ二本松が生んだ6人の偉人の資料が展示されており、改めて、多くの偉人を生んだ二本松の偉大さを思い知らされた。ただ、子之蔵の場合、終戦直後、多くのものを台湾に残して本土に引き上げたという経緯があり、また、移川の後妻が関係者に書籍などを貸していたという話もある。丈児氏がK子さんに宛てた手紙によれば、展示品として最もふさわしいものは『臺灣高砂族系統所属の研究』であり、その他には勲章、台湾高砂族の織物類、移川の写真などであろうという。しかし、この『臺灣高砂族系統所属の研究』については、子之蔵家には1935年の初版本はなく、後に入手した1988年刊の復刻版しかないという。私は、母校の明治大学図書館でこの初版本と復刻版を確認したが、やはり初版本は復刻版とは比べものにならないほど重厚であった(写真下左)。二本松から帰った後、漸く私は吉成氏の義妹K子さん、二女KKさんにお会いし、吉成氏の意図を詳しくうかがうことができた。続いて、子之蔵の孫Sさんにも直接お会いしたところ、著名人の署名がある台北時代の芳名帳、柳田国男や慶応義塾長からのはがきなどを見たことがあるというが、自宅は父・丈児氏の書籍であふれ、整理がついていないという。だがSさんからは、子之蔵にまつわる面白いエピソードを数多く聞くことができた。
 さて、移川が中学卒業後なぜすぐに留学できたのかは未だわかっていない。また、一族の墓地に関しては、本家すなわち子之蔵の長兄・源吉家のゆくえも今のところ探し当てる手立てもない。このようななか次は孫のSさんにお願いして、多摩霊園に眠る子之蔵の墓を訪れるとともに遺品の確認ができることを願っている。そして、可能であればどうにかして『臺灣高砂族系統所属の研究』の初版本を手に入れたいものだと考えているのである。
※) 本稿は、東京桑野会会報No.47号に寄稿された文書を転載したものです。
移川子之蔵 墓地写真他
 本稿「その3」に至る、「その1」と「その2」は以下の頁をクリックして参照してください。
2018年2月24日掲示のブログ 『偉大なる人類学者−移川子之蔵(第16期)のこと』…その1
2018年9月11日発行の安積桑野会会報第49号 『移川子之蔵(第16期)再び、そして私の人類学』…その2

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